『イギリス人の患者』 謎は謎を呼ばず悲しみを呼ぶ

『イギリス人の患者』
マイケル・オンダーチェ/訳:土屋政雄

1992年初版の小説。イギリスのブッカー賞を受賞。2018年には受賞作内の決勝戦みたいなゴールデン・ブッカー賞も受賞。映画化もしています。

舞台は1945年8月イタリア。大戦直後で廃墟化しているお屋敷。ドイツ軍が占領した後、連合軍が奪還して野戦病院にしたものの、戦略的に撤退。
なのに、1人の患者と1人の看護婦が居残っている。
冒頭から謎がいっぱいだ〜。

患者は全身大火傷で身元がわからない。会話はできるが、死を待つ状態。
看護婦は戦争に疲弊し若くして厭世的だが、この患者を最後まで世話することを決める。
この2人が廃墟のお屋敷で静かに暮らすプロローグがなんとも良い。
荒れ果てた庭園の片隅でプラムを摘み、雨風が吹き込む図書室から本を選び、2階の長い廊下の先にある患者の枕元で朗読をする。
この世の終わりを静かに迎えるとこんな感じなのかな。

幻想小説を読んでいるような淡い風景から始まりますが、現実はやってくる(しかしやんわりと上品にやってくる。良い小説)。
まず看護師ハナの「おじさん」カラバッジョ。盗人で戦争でも情報担当の怪しい中年。
続いて屋敷周辺の地雷撤去に来たインド人工兵のキップ。いいやつ。
4人それぞれが、それぞれの人生と戦争体験を背負っており、絡み合いながらも、静かに屋敷で過ごす。

徐々に人間関係が深まると同時に、自称イギリス人患者はイギリス人ではない疑惑も浮上。じゃあ何人なの?となりますが、ここで王道のミステリにはならない。
だって登場人物みんな、そこまで謎解きに熱心じゃないから。
謎の自称イギリス人のこと好きだから。

でも一方で、彼がどんな人間なのかは知りたいかも…。
という感じなので、彼の思い出話しも切れ切れ。意識も切れ切れ。
読んでいるこちらの理解も切れ切れ!「時系列が逆では?」みたいな話しの飛び方にも戸惑う。まあ、それも悪くない。

ちなみに彼らがいる屋敷はフィレンツェ郊外の丘の上に立ち、遠く街並みを見下ろせる立地だそうで。
イギリス人患者はポリツィアーノのブルスコリ屋敷ではないかと語ります。
ポリツィアーノはロレンツォ・デ・メディチに庇護された画家。
個人的にはフィレンツェを見下ろす屋敷といえば都市から追い出されたマキアヴェッリの家じゃないか!(塩野七生わが友マキアヴェッリ』に、塩野先生が屋敷跡の丘からフィレンツェを眺める涙の一文がある)

他にも西欧の歴史から詩や文学、美術品、芸術家などが会話にぽこぽこ登場します。
サボナローラが基礎教養として出るレベル…。読者を試しているのか…?
まあ、「なんそれ?」と言いながら調べるのも読書の良いとこではあります。
シーク教シク教)のこともわかってなかったなあ。独立した宗教なのか。という学びがあったり。

そんなにページ数が多いわけではないけど、読み応えのある小説。満腹。